姑耶山について

百花繚乱の姑耶山
百花繚乱の姑耶山

■ 姑耶山の開発 ■
 姑耶山は四季おりおりの花が咲き乱れる全山回遊できる庭園です。
私は姑耶山に妻と住み、長男貢が備前焼をつくっています。
姑耶山開拓の動機は、これからの農業は稲作だけではやって行けないと考え、酪農を取り入れた立体農業に力を入れていました。昭和30年、農業委員であった片山夏次郎、松原多七の両氏が訪ねてこられ、姑耶山の開拓をやりとげてくれないかと願まれました。
 姑耶山は、戦後の食糧不足を解消するための国策として開拓が行われていたが、食糧事情がよくなり、開拓に入つた人達が現金の入る、もっとよい収入の職業についた方がよいと判断し、途中で次々に転職してしまいました。そこで、元の地権者が土地を返還してほしいと農業委員会に申し入れがあったため、農業委員会は、どうしたものかと県庁へお伺いをたてたころ、県は、元の地主に返すとそれが前例になり、全県下で大きな問題が起こることになるので最後まで開拓をやりとげる人を探すように、との指示があつた。そこで、熱心に農業に取りくんでいた私に白羽の矢が立ったのです。
私は、まだ子供達も15、6歳の育ち盛りで生活の心配もあったし、開拓地への進入道路も狭く機械も入らないなど悪条件もあり、どうしたもかと迷い・真剣に考えました。
開拓地への進入路については、地主の森健二さん相談すると、心よくどうぞと言ってくれましたし、三木知事も、できるだけ協力すると約束してくれたので、姑耶山への入山を決意しました。最初は前述したように山を開墾し、乳牛を飼育しオリーブを植えたりしましたが・耕地が減少し立体農業は中止せざるを得ませんでした。
そして、この土地をどのように有効に使おうかと色々と考えたあげく、白分だけのために使うのでなく、備前焼を見たり買いにくる人達や地域住民の憩いの場所になる公園をつくろうと決心しました。そして、大量の桜やつつじ、花木、柿、栗などを植えるとともに、茶室や古陶館や廻遊道路などをつくりました。
道をつくっている最中に、偶然、古い窯跡や陶器の破片を発見し、専門家にたのんで調査してもらった結果、平安時代につくられた窯跡で、貴重な文化遺産であることがわかりました。このことはマスコミでも大きくとりあげられ、話題になりました。
この窯跡は、岡山県無形文化財で名工の誉れが高かった故伊勢崎陽山先生(現在の満氏、淳氏の父)にたのみ復元しました。その後、鎌倉窯、室町窯も発見し復元しました。現在、平安窯は伊勢崎氏の息子さんが、鎌倉窯と室町窯は、私の長男貢が実際に使用し作品を焼いています。
焼味は、明るさが特徴で誰が見ても魅力を感じるものです。
姑耶山を開山してから七年目の昭和三十七年、茶室、水車小屋、古陶館(盗難にあい閉館中)、白蓮.有本芳水・岡山城の三種類の詩の歌碑を建設し、盛大に落盛式を行いました。大勢の人がお祝にかけつけてくれました。
この時、併せて歌の発表会を行いましたが、この歌が、備前の歌として、備前焼祭りや催しもののある時に必ず歌われるようになりました。また、45年に15周年、60年に30周年記念行事を行い、歌手の春日八郎さん、国会議員の寺田熊雄先生など多数の皆さんが全国から参加してくださいました。

■ 姑耶山の由来 ■

 中国の史書に、姑耶山に入り修業を積み、老後、姑耶仙人となったとの故事が伝わっています。
この故事にちなんで、香登の大庄屋でかつまた有名な漢学者であった「小橋平感」が名前を付けたと言うことです。
平感は、江戸時代の文化文政の頃、全国にも名の知れた文化人で、絵も書も一流で、漢学にも精通し、交際も広く、博学の人でした。晩年家督を息子にゆずり、隠居し、この山に質素な庵をむすび、余生を送ったそうです。
頼山陽、平賀元義などの大学者も姑耶山に平感を訪ねたとのことです。

榊原 勤著「温故知新」より

土は生きている…

生きている土を使って

私も生きている。

  天人窯・榊原 清人

〒705-0001

 岡山県備前市伊部2523

Tel 0869-64-1582

Fax0869-64-1534

天人窯の所在地(MAP)

      ロクちゃん
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